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早慶戦 リンク集

早慶戦(そうけいせん)は、早稲田大学(以下、「早稲田」)と慶應義塾大学(以下、「慶応」)との対校戦である。主にスポーツ(特に野球)での対戦であるが、スポーツ分野以外でもこの両校の学生サークルが実施する討論会などで使用されることがある。 なお、慶應の関係者は伝統的に慶早戦(けいそうせん)と呼ぶが、塾内行事の名称としては「早慶戦」を使用している。

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早稲田と慶應による野球戦は「早慶戦」の起源であり、一般に「早慶戦」という言葉はこの野球戦を指す事が多い。この早慶両校の野球チームの対抗は、現在のような各種野球大会・対抗戦・競技団体組織が未整備だった当時創成期の日本野球界やさらにスポーツ界全体においても大変な人気を博し、その後の東京六大学野球連盟の結成、さらに各地のアマチュア野球の形成・発展、そしてプロ野球の発足へと続く日本野球の発展に大きく貢献し、またその礎となった。こうした歴史からマスコミで早慶戦に触れる際に「伝統の」という言葉を冠することが多い。このような早慶野球戦の発展(と紆余曲折)が早慶両校の対抗意識を醸成し、結果として後年には他の競技や更には学術分野にまで早慶両校間の対抗・連携にまで影響を及ぼすようになった。 現在は東京六大学リーグ戦の最終週に組み込まれており、NHKなどによるテレビ中継も行われるなど、両校の学生や卒業生ばかりではなく野球ファンにも楽しまれている。華やかにして創意工夫に富み、なおかつ礼・節を保った応援合戦は日本の野球応援に多大な影響を及ぼしてきた(後述)。日本における野球への興味がプロと高校野球に収斂され、“中二階的”な大学・社会人野球への関心が薄れるなか、それでも早慶戦は、かつてほどではないにしろアマチュア野球では屈指の万単位の動員力を維持している。早慶両校に優勝がかかる展開となれば、学生のみならずファン・OBが駆けつけ神宮球場を埋める。優勝校は神宮から学舎まで紅白の提灯を掲げてのパレード(「提灯行列」、「提灯パレード」と呼ばれる)を行う。 開催時期は春季が5月最終週か6月第1週の土・日曜日、秋季が10月最終週か11月第1週の土・日曜日、ともに神宮球場で行われる(なお、神宮球場は早慶戦を初めとする東京六大学野球を収容する球場として発足している)[1]。東京六大学リーグは通常1週に2カード組まれるが、最終週の早慶戦のみ単独開催となっている。これは、後述のように東京六大学連盟が早慶戦を起源とすることに由来したものである。 リーグ戦の他に現役・OB混成チームによる「オール早慶野球戦」(全早慶戦)が行われる。2009年度は、8月22日に松山市坊っちゃんスタジアムで、11月23日には阪神甲子園球場でも開催された(甲子園での開催は53年ぶり)[2]。2008年8 月6日から20日にかけては、ブラジル日本人移民100周年記念として、早慶両部によるブラジル遠征も行われた。 春の早慶戦は両校のサークルにとって新入生歓迎行事の一環として利用されることもあって、両学生席とも外野席まで使っての大応援となる。基本的に学生席内は座席指定がなく早い者勝ちとなるため、しばしば徹夜による席取りが行われてきた。これが球場周囲をはみ出して一般道にまで及んだり、酒に酔った学生が器物を壊したり、また一般人とけんか沙汰になるなど社会問題化したため、徹夜待ちは禁止となっている。 入場待ちの学生を統制するのは早稲田では「早慶戦支援会」、慶應では「慶早戦支援委員会」という、いずれも学生有志で組織された会が応援(指導)部員とともに担っている。また、徹夜待ち回避のため、サークル対象に行われる事前の入場順位抽選や、リーグ戦観戦時に得られるスタンプを規定数持っている学生には優先して早慶戦の学生席券を売る・あるいは入場順を考慮するなどの工夫も見られる(一部には入場者数の減った六大学野球の動員増目的とも言われる)。

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両校の初の対戦は1903年11月21日、慶應の三田綱町球場にて行われた。早稲田が先輩格の慶應に「挑戦状」を送達し、慶應が応じた事によって行われた試合である(このときの双方の書面は野球体育博物館に所蔵されている)。挑戦状の筆者は当時の早稲田主将橋戸信であったといわれている。試合は11-9で慶應の勝利。当時早稲田は野球部発足から1年余り、対する慶應は発足から20年近い歴史を持ち当時最強を誇った一高に勝った実績も持っていた。しかし後発でかつ格下と思われた早稲田が大いに善戦したことによって慶應も対戦相手にふさわしいと評価し、翌年から定期戦を行うことに決まった。翌1904年6 月1日・2日、当時学生野球王者と謳われた一高野球部に早慶両校が連日にわたり勝利すると、早慶戦は学生野球の頂点=当時の日本野球の頂点を争う試合として衆目を集めた。早稲田のアメリカ遠征(1905年)後には定期戦を2勝先勝方式にし、2勝した側にトロフィーを与えることとした[3]。現在東京六大学野球をはじめ多くの大学野球で採用される、勝ち点制のはじまりである。 慶應義塾大学正門 かくて早慶両校は一躍球界の頂点を争う存在となったが、それは同時に応援合戦の過熱も招き、1906年秋、第1戦に勝利した慶應の学生が大隈重信邸・早稲田正門で万歳を行えば、第2戦に勝利した早稲田の学生も福澤諭吉邸・慶應正門に大挙して万歳三唱を行うなど、両校応援団は一触即発となる。応援席の配分を巡る混乱もあって、険悪な状況となった。更なる事態の悪化を危惧した両校当局は第3戦を中止、以後早慶戦は長い空白期間に入る。慶應が学生大会を開いて全競技での早稲田との試合禁止を決議すれば、早稲田も慶應に絶縁状を送るなど、両校の関係は修復不能と思われた。 1914 年、早稲田・慶應・明治による三大学リーグが発足し、1917年には法政、1921年には立教の各大学がこのリーグに加わるが、早慶戦のみ行われない変則的運営であった。早慶戦復活を願うファンの声に応えるかのように両校OBによる三田・稲門戦も実施され、他方剣道・ラグビー・陸上競技などで早慶の対抗試合が行われたりもしたが、両校OBらの反発はなお強く、早慶戦は再開されなかった。こうした状況を打破するため、1923年頃から明治が中心となり早慶戦復活を打診するが、早稲田側は同意し慶應も現役は歓迎したものの特にOB側が難色を示し続けた(中でも慶應義塾評議員会の主池田成彬が猛反対していたといわれる)。1925年の秋に東大(当時は東京帝国大学)が加盟、これを突破口とすべく明治部長内海弘蔵を中心に「早慶戦復活に反対する者を除外して新リーグを結成する」と強硬な態度を示した事と慶應主将桐原真二らの説得もあって、慶應OB側もようやく早慶戦復活を受諾。かくして東京六大学野球連盟が創設、19年ぶりの早慶戦復活が実現した。復活した早慶第1回戦(1925年10月19日)の試合前、早稲田部長安部磯雄がグラウンドに立ち、早慶戦復活が野球の発展にいかなる意義をもつかを、応援におけるマナーの遵守を求める請願とともに満場に訴えた。 早慶戦は再び大きな関心事となり、試合の模様は当時普及を始めたラジオの電波に乗って全国に広まっていった。球場に入れないファン向けに試合を解説する特設ステージ(プレイヤーズボールドなる速報板が設置)が設けられるなど、早慶戦の人気はさらに高まりを見せた。1929年秋季の対決は双方全勝同士の決戦となり、慶應宮武三郎・早稲田小川正太郎の両エースの対決は全国的な熱狂を生み、早稲田佐藤茂美の逆転ランニングホームランによる劇的決着は新国劇によって舞台化され、また花菱アチャコ・横山エンタツの漫才コンビも題材に使用した。入場券を求めに神宮球場に徹夜の列ができるなど応援も再び過熱し、1933年には早稲田側応援席から投げ込まれたリンゴを慶應三塁手・水原茂が投げ返した事に端を発した、いわゆる「リンゴ事件(水原リンゴ事件)」が発生、早慶戦中止の第二の危機かと騒がれた。このリンゴ事件以降早慶戦では、ダッグアウト及び応援席は早稲田が一塁側、慶應が三塁側に固定されることになった。この方法は現在まで踏襲されている。同時にこの頃から、早慶戦がリーグ戦の最終週に行われるようになった。 還らざる学友の碑 (慶應義塾大学三田キャンパス) 戦時体制下の1943年、東京六大学野球連盟は解散。しかし学徒出陣を前に慶應からの働きかけをもとに10月16日、早稲田の戸塚球場にて「出陣学徒壮行早慶戦」(俗に言う「最後の早慶戦」)が行われた。選手たちの多くは戦場にかり出され、命を落とす者も少なくなかった。 終戦間も無い1945年11月18日、神宮球場にて戦後初の野球試合である全早慶戦が行われた。当時神宮球場は米軍に接収されていた為、進駐軍の協力を得ての実現であった。全早慶戦はその後1946年1 月に阪急西宮球場で、4月に後楽園球場・高岡・金沢でも行われている。そして5月には復活した東京六大学野球連盟によるリーグ戦が再開された。その年のリーグ優勝を春慶應・秋早稲田と分け合うと、以後1956年までの11年間22シーズン中、早慶で17回の優勝を占め、戦前に次ぐ第二の黄金時代を現出した。 その後長嶋茂雄の登場により立教にリーグ戦の主役の座を一時明け渡すが、1960年秋のリーグ戦は最終週の早慶戦で早稲田が2勝1敗した結果、早慶両校が勝ち点・勝率とも首位で並び、両校による優勝決定戦となった。一発勝負の決定戦であるが、試合は1-1の引き分け。再試合も0-0で引き分け、再々試合を早稲田が安藤元博の4連投により3-1で制し、ようやく早稲田の優勝が決定した。これがいわゆる早慶六連戦である。 早慶戦100周年を迎えた2003年11月には神宮球場にてプロアマのOBを交えた記念試合が行われた。なお、この記念試合は慶應が3-2で勝利した。 東京六大学リーグ戦における対戦成績(1925年秋〜2009年秋)は早稲田206勝、慶應169勝、引分10。優勝決定戦は4回(早稲田3勝、慶應1勝、引分2)。勝敗以上に、内容の濃い好勝負を展開してきた。両校で優勝を争うだけでなく、相手の優勝を阻む熱戦が展開されることもしばしばあった。1971年からの慶應3連覇は、同年春早稲田に連敗(そのため法政が勝率で上回り優勝)しなければ4連覇の偉業となったところであり、1950年からの早稲田3連覇も、前年秋の慶應の雪辱なければ5連覇を果たしていたところ(早稲田先勝後2戦目もリードしていたが突然の豪雨でノーゲーム、雨上がりの一戦を慶應が制し早稲田が優勝を逸す)であった。1986年春は慶應が秋春連続優勝まであと1勝と迫った3回戦、9回2死2ナッシングまで早稲田を追い詰めながらまさかの逆転サヨナラ打を浴び優勝を逸した。2009 年秋季も勝ち点を取れば優勝の早稲田に慶應が連勝し、早稲田の同一シーズン4年連続優勝を阻んだ。「戦前不利と評された方が早慶戦を制する」といわれるように、実力差を越えた激戦の連続もまた、早慶戦の人気・魅力を高める一因であったといえる。 なお、東京六大学リーグ戦の優勝校には天皇杯が授与されるが、その基は戦前の摂政杯。昭和天皇は戦前1度(1929年)戦後1度(1950年)、今上天皇も1994年春に早慶戦を行幸している。

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出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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